2023年度 自然災害伝承碑?用水建設顕彰碑調査
第1回発表会↓
多摩川決壊の碑(東京都狛江市) (周囲の写真) 写真は東京都狛江市の小田急線和泉多摩川駅から徒歩5分ほどの距離にある水害伝承碑である。平成11年3月27日に狛江市によって設置された。 多摩川水害の概要は、昭和49年8月31日の深夜から9月1日の夕方にかけて、台風16号の影響で上流氷川を中心とした多量の降雨が発生し、多摩川の水位が上昇し続けた。この出水によって、1日昼頃に二ヶ領宿河原堰左岸下流の取付部護岸が破壊され、激しい迂回流が発生し、高水敷が侵食された。午後10時過ぎにはついに本堤防が決壊し、住宅地に激しく流入した。本堤防は260mにわたって崩壊し、狛江市猪方地区の家屋19棟を流失させる被害をもたらした。 この災害を踏まえ、平成10年、従来の堰より10m下流に、洪水を安全に流すとともに、豊かな水辺環境の保全と創造を目的とした新しい堰が完成した。 多摩川決壊の碑は水害の恐ろしさを後世に伝えることはもちろん、治水に重要性を伝える水害伝承碑である。(あおきくん) 参考:案内掲示板を参照した。 |
|
川がわかるように撮影したのが良いと思います。水害の被害を受けた土地がどのような場所だったか昔の地図を確認しておくと良いでしょう。(今昔マップ) |
多摩川決壊の碑(東京都狛江市) (下流側の河川敷写真) (現在の宿川原堰写真) 画像の水害伝承碑は,東京都狛江市にある多摩川決壊の碑である。この碑は,1974年の台風16号に伴う豪雨によって多摩川の堤防が決壊した地点を示している。災害の概要としては,1974年に強い勢力を保持した台風16号の接近によって関東地方に停滞していた前線が刺激され,8月31日から激しい雨が続いた。多摩川上流部で豪雨が断続したことや翌日に小河内ダムが放流を始めたことで川の水位は上がり続け,9月1日になって二ヶ領宿河原堰のわきから崩壊が始まった。そして本堤防が決壊したことで狛江市猪方の一部がえぐられる形となり,19棟の民家が流失した。碑には碑文と当時の画像の銘版が埋め込められており,水害の恐ろしさや河川管理の重要性についての記載がされている。(にー) |
|
宿河原堰の写真を撮影したのは良かったと思います。当時の空中写真が閲覧できます。教習所は昔からあったことがわかります。水害の恐ろしさを伝承することは大切ですが、どうして災害が起こったのか?についても伝えていく必要があるでしょう。 |
多摩川治水記念碑(東京都大田区) 写真は東京都大田区田園調布1丁目55にある「多摩川治水記念碑」という水防顕彰碑である.度重なる洪水被害に悩まされてきた橘樹郡御幸村(現在の川崎市中原区)の住民らは,神奈川県庁に対して堤防の建設を何度も請願するも,一向に進展せず,ついには住民500人で県庁に押し寄せる「アミガサ事件」を起こした.その結果,1916(大正5)年に御幸村上平間天神台~中原村上丸子間で堤防が整備された1).この出来事をきっかけに多摩川改修請願運動が広がり,1918(大正7)年~1933(昭和8)年には大田区羽田~世田谷区砧間で堤防が整備された2).石碑はこの堤防の完成を記念して1936(昭和11)年に国によって建てられ,裏面に工事に携わった人々の名前が刻まれている3).(しらさぎ) 今昔マップ 多摩川の二子橋~丸子橋間を1906(明治39)年と1929(昭和4)年で比較したもの.直線的な堤防が整備されていることがわかる. 注1)京浜河川事務所多摩川の名脇役有吉堤 注2)大田区多摩川治水記念碑 注3)京浜河川事務所多摩川の名脇役多摩川治水記念碑 記念碑の場所KML |
|
多摩川の洪水に悩まされて、先に行動を起こしたのは川崎側でした。直訴がご法度の時代に、ある意味命がけで、神奈川県知事に堤防工事の陳情を行いました(アミガサ事件)。理解ある当時の神奈川県知事は堤防建設を認可し川崎側の堤防工事がはじまりました。これをみた大田区側は妨害工作を行います。川崎側の堤防ができてしまうと、大田区側の水害リスクが高まるからです。内務大臣を動かして、無許可の堤防工事をしているとして川崎側の堤防工事をやめさせようとしました。ところが神奈川県知事の方が一枚上手で、「堤防ではなく、道路の盛土工事である」として工事を続けさせました。2016年に完成した堤防は神奈川県知事の名前から「有吉堤」と呼ばれました。有吉堤の顕彰碑は川崎市にあります。(写真) |
布施丹後守常長遺徳碑 顕彰碑(千葉市中央区) 写真:解説石碑(丹後堰公園) 写真:丹後堰の取水堰 これは、千葉市中央区「千葉寺(せんようじ)」境内にある、「丹後堰」建設に尽力した布施丹後守常長を称える遺徳碑と用水建設顕彰碑である。丹後堰は、現?千葉市中央区星久喜町の都川?支川都川合流部より水を引き入れ、亥鼻台の北側を廻り込んだのち南進することにより、都川流域の南西地域へ水を届けた、全長およそ5キロメートルに渡る灌漑用水である。 |
|
慶長十八(1613)年から寛永二(1625)年までの、延べ13年に及んだ工事により成ったこの用水は、旧?矢作村?辺田村?千葉町,常長出身の地である寒川のほか,余水があれば旧?今井村(現?JR蘇我駅付近)の水田までをも潤した。顕彰碑がある千葉寺を有す旧?千葉寺町も、丹後堰の恩恵を受けた村の一つである。水田が姿を消した現在も、開渠や土地利用のほか、「都川水の里公園」付近にある都川?支川都川合流部から分岐する水の流れに丹後堰の姿を見ることができる。余談ではあるが、この都川水の里公園の園内は5つの自噴井を有しており、丹後堰とともにこの地を潤す大きな存在であった、井戸水の姿を伝承している。(カンパン) 千葉市地域情報デジタルアーカイブ |
|
都川をせき止めて谷戸に貯水池を作り(千葉東JCT付近)、そこから台地の縁に沿うように用水路が作られたのですね。千葉大病院、千葉大、郷土博物館、千葉高校、武道館の崖下(斜面下)にあったようで、一部開渠になっています。(地理院地図) |
久地円筒分水 (川崎市高津区) これは、神奈川県川崎市高津区久地1丁目にある久地円筒分水である。この施設は平賀栄治が設計し手がけたもので、1941年に完成した分水桶となっている。多摩川から取水された二ヵ領用水を平瀬川の下をトンネル水路で通し、中央の円筒形の噴出口からサイフォンの原理で流水を吹き上げさせる。 |
|
その水を下流の地域に正確で公平な分水比で四方向へ泉のように用水を吹きこぼすことにより、灌漑用水の分水量をめぐって渇水期に多発していた水争いを一気に解決した。この円筒分水の技術は、当時としては大変に優れた自然分水方式だったことから、各地で同様のものが築造されました。 「久地円筒分水」は、その歴史的な重要性や、全国に広がる初期の円筒分水の事例であることから、平成10(1998)年に国の登録有形文化財に登録されています。(ヴィヴィ君) |
|
多摩川水害の原因のひとつとなった宿河原堰で取水しているのが二ヶ領用水で、平瀬川を伏せ越ししたところに久地円筒分水があります(地理院地図)。溝の口駅前に円筒分水を模した屋根があります。ちなみに、群馬県高崎市にも円筒分水があります。(動画)。 |
久地円筒分水 平賀栄治顕彰碑 (川崎市高津区) (久地円筒分水写真) 写真の場所は神奈川県川崎市にある二ヶ領用水の久地円筒分水である。ここには平賀栄治の顕彰碑がある。1597年に徳川家康より治水と新田開発の命を受けた、当時の代官小泉次太夫は、約14年の歳月をかけて二ヶ領用水を完成させた。しかし、正確な分水ができなかったため争いが絶えなかった。 |
|
江戸時代中期には川崎宿の名主、田中丘隅が修復した。後の1941年、平賀栄治がこの久地円筒分水を完成させた。この円筒分水は多摩川から取水された二ヶ領用水を平瀬川の下をトンネル水路で導き、中央の円筒形の噴出口からサイフォンの原理で流水を吹き上げさせて正確で公平な分水比で四方向へ泉のように用水を吹きこぼす装置である。円筒の切り口の広さで分水量を調節できる。これによって、灌漑用水の分水量を巡って渇水期に多発していた水争いを一気に解決させた。(セメントハンバーグ) 川崎市教育委員会「久地円筒分水」 小学校配布読本「かわさき2012」川崎市教育委員会出版 |
|
二ヶ領用水と平瀬川、円筒分水の位置関係を地図でおさえておこう(地理院地図)。なお、この場所はサクラの時期が最高です。 |
大洪水記念碑 (茨城県土浦市) この水害伝承碑は、茨城県土浦市田中2丁目の八幡神社にある。神社の中にあったがとても分かりにくい所に置いてあり、写真からも分かるように劣化が進んでいて見づらかった。「昭和13年洪水」の伝承碑である。伝承内容は、昭和13年(1938)6月から7月の梅雨前線による大雨で大洪水となり、真鍋から下高津までの桜川低地が冠水した。 |
|
その中で八幡神社の境内は、約2.4m浸水した。土浦市では、死者行方不明者が6名、全半壊家屋658棟、流失家屋が133棟、床上床下浸水が5500棟の大きな被害があった。加えて、滞水が23日続いて、赤痢、疫痢が発生した。この土地は、水はけが悪いことが考えられる。このような大きな被害を受けたが確認されている石碑は、この一例だけである。土浦市は、桜川の氾濫や霞ヶ浦からの遡上により洪水が起こりやすい地域であると考えられる。(みぃ) 重ねるハザードマップ |
|
碑文がわかるように接写したのですね。周囲がわかるような写真もあれば良かった。今昔マップで見ると、田中集落は水戸街道から外れた水田の中にあったようです。その水田の中に現在の消防署があるわけですが、有事の際に大丈夫なのかな? |
決壊口の跡(茨城県龍ヶ崎市) この石碑は、昭和 56 年8月台風 15 号がもたらした、堤防決壊においての自然災害伝承碑である。この石碑が立地している場所は、小貝川左岸の堤防上に立地している。この堤防決壊の原因となった台風 15 号は、とても総雨量が多く、利根水系や関東北部にも影響を及ぼす大雨を引き起こした。 国立防災科学技術センター1981 年 8 月 24 日台風 15 号による 小貝川破堤水害調査報告によると、関東地方で 3 時間雨量 100mm を超える所も現れたと記されている。この台風が甚大な被害を出し、小貝川堤防決壊を起こした要因は、日本列島を早い速度で真北に縦断して雨を多くもたらしたためである、と分析されている。 龍ヶ崎付近の土地は、河川下流の平野となっており、大雨による影響を受けやすい土地である。そのため、龍ヶ崎付近の自然災害伝承碑の分布を見ると、多くの伝承碑がこの付近に林立していることがわかる、すなわち、この洪水が多々起こる土地において自然災害伝承石碑はとても重要な役割を担っているといえる。(ウィリアムズ) |
|
台風による大雨で本流の利根川が増水して、支流の小貝川の排水が滞って発生したと思われます。破堤地点は現河道と旧河道が分岐するところですね。(今昔マップ)。地元の教育委員会が歴史?防災教育に熱心かと思います。地理院地図の災害伝承碑表示の多いエリアです。 |
決潰口の跡(茨城県取手市) この石碑は茨城県取手市高須にある。昭和10年(1935年)9月21日頃から全線が停滞し低気圧が発生した。さらにそこに24日、26日と二つ台風が発生した。そのため、24日から26日まで利根川上流域で豪雨が継続したことにより利根川の水位が上昇してしまい逆流が発生。小貝川の左岸堤防がこの辺りで決壊した。これらの洪水被害は浸水面積約10000ha、浸水家屋は4693戸、死者218名、行方不明者39名に及んだ。その後1955年に石碑が建立された。現地に赴いての感想としてのどかな田園風景が広がっており丘陵や山などが一切なく平坦な地形が続いていたため、現在ほど治水工事がなされてなかった昭和初期の時代で洪水などが起きれば被害が甚大になるのが想像できた。 (ウータンズ) |
|
ウィリアムズの調査地点より350m下流の伝承碑ですね。(ストリートビュー)石碑ができるまで発災から20年もかかったのはどうしてなんでしょうか。江戸時代の利根川東遷事業で、東京湾に注いでいた利根川を鬼怒川?小貝川水系に変えたので、小貝川の水害リスクは高まったとみられます。 |
決潰口の跡 (茨城県龍ヶ崎市) 今回私は、茨城県龍ケ崎市にある「決潰口の跡」という水害伝承碑を訪れた。JR常磐線の龍ケ崎市駅から徒歩15分ほどで、線路沿いにある。 昭和16年(1941年)7月23日19時、小貝川左岸の堤防でもあった常磐線の線路で越水が発生、決壊が起きた。線路も洪水で流されたという。同年7月11、12日に台風の影響を受けた梅雨前線による大雨があり、その後7月19~22日にかけて台風による豪雨が重なったことでこの地域一帯は大水害に見舞われた。その後1955年にこの伝承碑は建てられている。 |
|
この場所は小貝川と谷田川が合流する地点の700mほど手前に位置していて、そのことも決壊が起きた要因の一つなのではないかと感じた。すぐ近くには「要石建立由来之碑」という別の伝承碑があり、上記の決壊の他がけ崩れが発生したことに対して要石と碑が建立された。これらの他にも1935年から1981年に発生した複数の水害に対して、小貝川沿いに計9つの伝承碑?顕彰碑が存在している。このことから、この一帯は水害に見舞われやすい地域だということが分かる。(M.S.) (参考) 昭和16年洪水 | 霞ヶ浦河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局 自然災害伝承碑を訪ねて ?/いばらき防災キャンペーン2021 |
|
JRの駅名が「龍ヶ崎市駅」に変わったのですね。関鉄は「佐貫駅」のまま?ややこしい。(地理院地図)。この伝承碑の北西約1.7kmの震央住宅地は2023年の台風で浸水被害(内水氾濫)が発生しています。 |
|
||||||
治水の碑?要石建立由来の碑?決潰口の跡(茨城県龍ヶ崎市) 調査地域(kml) 茨城県南端、取手市と龍ケ崎市の間に位置する中洲。牛久沼の下流である当箇所は肥沃であるが水害を理由に離農者が相次いでいた。ここに水門を建設することは長年の懸案であり、大正十(1922)年に有志(後の牛久沼水害予防組合)によってついに決議され、十五(1926)年に初の水門が竣工する。しかし、その後の水害は前年に増して苛烈であり、昭和二十五(1950)年の洪水によりついに大破。すぐさま再建が全会一致で決定され、全長?高さ四十二メートル強、二層三連の鉄筋コンクリートの近代的水門がその三年後に完成した。 治水は水門だけでは成り立たない。昭和十六(1941)年の洪水により堤防が陥落したことで流域は濁流に飲み込まれ、一帯は阿鼻叫喚と化した。不幸なことに戦時下において国が築堤にリソースを割く余裕はなく、戦後まで応急処置で凌ぐ他なかった。昭和二十四(1949)年、牛久沼水害予防組合の陳情により旧建設省認可の下堤防の増補工事が着工される。二万人の人員、三万立方メートルの用土の斡旋といった資本を以て千三百メートルに渉る事業が七年の歳月をかけて成された。(ミラン) |
||||||
小貝川が増水した際に八間堀(牛久沼方向)に逆流しないように水門がつくられたようですね。(ストリートヴュー)水害リスクの高い地域です。 |
第2回発表会↓
二ヶ領用水路地跡 (横浜市鶴見区) (周辺写真) 写真は稲毛?川崎二ヶ領用水跡である。ここは神奈川県橘樹郡稲毛村中野島及び宿河原(川崎市多摩区)の二カ所に取水口を設け、多摩川より引水して橘樹郡(川崎、横浜市鶴見区矢向、江ヶ崎、市場、菅沢、潮田二千七町歩)に灌漑する全長32㎞の用水路で水田耕地を潤していた。 |
|
この用水は慶長2年幕府代官小泉次大夫が用水堀総奉公を承り、水路の測量工事が開始され、慶長16年の完成した。その後、何度か改修されている。この用水は別名「次大夫堀」と称し、功績がたたえられている。用水は飲料水としても利用され、夏には蛍、鰻やシジミも取れたという。昭和に入り、農耕地が工場、住宅地になるにつれて公共水道の完成により、この用水が使われなくなり昭和47年に埋め立てられた。(なおや) | |
川の場合は下流に行くと支流が合流してだんだん太くなるのが普通ですが、用水路は下流でどんどん分流してむしろ細くなったりします。今昔マップでは、1966年の旧版地形図で用水路を確認できます。現在は暗渠(地表面に蓋をして水流を地下にする)になっているのでしょう。 |
高山川水害史碑(鹿児島県肝付町) 写真:高山橋から高山川上流方向を眺める これは鹿児島県肝属郡肝付町にある高山川水害史碑である。1938(昭和13)年10月14日から15日にかけて肝付町(旧高山町)に、総雨量420mmもの大雨が降った。それにより山津波が起こり、死者118人、行方不明53人、重傷者253人という大災害となった。 史碑の証言には、「まるで潮のように押し寄せる洪水には、防ぎ得る何物もない。浸水した家は見る見る満水となり、人々は天井を打ち破り屋根の上に避難し、運を天に任せた。なかには屋根にすがったまま急流に陥り、もうこれまでと泣きわめきながら、家族全員抱き合い下流に押し流された者もいた」と生々しい証言が載っていた。 |
|
そもそも高山川を含む肝属川流域は龍の如く曲がりくねった川だった。それに、台風がよく通ること、水源から河口までの距離が短く急峻であるためと、水に脆いシラスの堤防であったために水害が起こりやすい環境であった。当時国による治水事業が始まったばかりで、まだ完成していなかった。その後治水工事は1963(昭和38)年まで続いた。しかし、その後も水害は次々と襲い掛かってきた。(にっとー) 【引用?参考】 史碑周辺の地形分類 当時の証言 治水事業の概要 虎扑nba,虎扑足球 かだいおうち(鹿児島大理学部) |
|
地形的には興味深いところですね。狭い範囲に丘陵地あり、火山灰台地あり、扇状地あり、自然堤防あり、旧河道あり、後背湿地ありという感じで入試に出そうな場所。肝属川のかつてお蛇行が興味深く、下流ほど蛇行が大きくなっていたりする。梅雨前線や台風によって大雨となりやすい地域です。鹿児島86水害(1993年)から今年で30年ですね。 |
水害記念碑(広島県府中町) (碑文の写真) この写真は、大正15年(1926年)に広島県府中村(現:府中町)で発生した豪雨災害を忘れぬようにと建てられた水害記念碑を撮影したものである。撮影場所はえの宮公園だ。職員さんが倉庫から出してくださった資料によると、9月10日の午後11時頃までは晴れていたが、午前0時頃から大雨が降ったという。さらに午前1時には村内の各河川が満水に、午前2時には各地に被害が出て午前3時には各河川の橋が全て流され、午前4時には堤防が十数か所にわたり決壊し、耕地や家屋がほとんど浸水したという。実際に付近を歩くと、府中大川に注ぐすぐにあふれてしまいそうな見た目の小河川が多く見られた。公園の近くには、幼稚園や小学校もあり避難場所になっていたが、河川よりも標高が低いところに位置していたため心配になった。また、近くで太田川水系榎川河川改良工事も行っていた。榎川などの小河川の合流地点には市役所や消防署があり、記念碑のおかげで災害の記憶は受け継がれるかも知れないが、また同じ災害が起きた際に対応できるかについては疑問である。 広島県内における水害碑の韻文資料(広島大学学術情報リポジトリ) 全国Q地図 協力者: 府中公民館 府中町歴史民俗資料館の職員さん |
|
しっかりと資料を調べ、学芸員さんの話を聞いたのは良かったと思います。碑文の写真もしっかり撮れています。(ストリートビュー)記念碑脇を流れる榎川は800m下流で府中大川や八幡川と合流しているようです。三川合流地点に市役所や消防署がありますが大丈夫なんでしょうか? |
宮原の水害碑 (千葉県一宮町) (周囲の写真) 一宮川河口付近に建立された小さな石碑。洪水が発生したのは 1916 年 7 月 30 日。 25 日ごろから降り続いた雨により一宮川の宮原堤防が決壊した。 二軒の家が流され、 3 軒の家が傾いたが死者は出なかった。この石碑が建立されたのは翌年の 1917 年である。洪水を起こした一宮川長生郡長南町にの山間部の房総丘陵が水源の二級河川である。一宮川はたびたび氾濫を起こしており、2023 年 9 月 8 日の大雨の際も 3 か所で氾濫が確認された。 この石碑は一宮川河口付近に位置しており、川のすぐ横に建立されている。しかし、管理が行き届いていないのか草が生い茂り、石碑に刻まれた文字も苔によって見えなくなっている箇所があった。(スプリンター) |
|
伝承碑がある場所は旧河道の分岐するところのようです(地理院地図)。九十九里浜は海岸線の方向に浜堤が発達しているので、川があふれると低地に沿って横に細長く広がる可能性があります。2023年9月には「線状降水帯」が発生しました。 |
寛保二年大洪水 水位記念碑(埼玉県川越市) 埼玉県川越市久下戸(氷川神社)にある寛保二年大洪水?水位記念碑である。1999年に建立された。1742年8月に起こった寛保2年の大洪水について記された災害碑である。 |
|
寛保2年7月27日(1742年8月27日)から降り始めた雨は、8月1日(1742年8月30日)に豪雨となり、荒川の水位は堤の上まで達し、各所で決壊した。旧久下戸村では、隣の旧古谷本郷村で堤防が決壊したため多くの家が軒まで浸水し、氷川神社も約60センチ浸水した。このよう な甚大な水害であったが、近隣の村々では田に落ちて溺死したもの以外に死人はなかった。石柱には「記念碑寛保二年大洪水、水位」と刻まれている。石碑には、「寛保大洪水位標追記碑」とある。(はるの) | |
災害は1742年だけれども、黒の石碑は1999年に作られたようですね。久下戸集落の形は三日月状なので、見るからに自然堤防上に立地した集落ですね。(地理院地図)。高い方の黒石の上部に白い横線が入っていますが、そこが水位ではないのかな?とすると「神社も60センチ浸水した」というのは本当なのかな?石碑が間違っているのかな? |
明治23年台風 協同碑(埼玉県吉川市) 埼玉県吉川市の水害伝承碑を調査した。市内に水害に関する伝承碑は3か所あり、そのうちの1つを取り上げる。画像の碑は吉川市の北部の川藤という場所にある碑であり、明治23年(1890年)に発生した台風の被害を記録したものだ。 |
|
碑に書かれてある文字は掠れていて読めなかったので、国土地理院の自然災害伝承碑地図
に書かれてあった内容を載せる。「明治23年(1890)8月中旬、台風の影響で利根川の栗橋は約4.9m、江戸川の金杉は約4.5m水位が上がった。なかなかない洪水で、旧中条村(現熊谷市)の堤が25日に破られ利根川が氾濫した。27日には旧戸ヶ崎村(現三郷市)の門樋の南側、29日には旧吉川村木売が破られ、二郷半領(現吉川市(旭地区を除く)と三郷市)は果てしない海のようになり家屋を没した。」とのことだ。吉川市だけでなく、利根川?江戸川の流域全体が大きな被害を受けたようだ。吉川市一帯は果てしない海のようになっていたとのことでその被害の大きさがわかる。 吉川市内だけでも河川が6本ほどあり、水害とは切っても切れない土地柄だとは思っていたが、説明文を読んでより生々しい怖さを感じた。伝承碑が3か所もあるということはそれだけ水害のリスクを抱えた場所であり、危険だということがわかった。(おかめ) |
|
大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)と江戸川の間の低地ですね。(今昔マップ)昔から水害に悩まされてきた地域です。明治23年の水害の6年後、明治29年にも水害があったようで、東京の下町も浸水したようです。 |
災害復旧耕地整理 桂川改修記念碑(群馬県伊勢崎市) 災害復旧耕地整理桂川改修記念碑は,群馬県伊勢崎市下触町にある八幡宮内に建てられている。この石碑は,1947年のカスリーン台風の被害からの復旧記念によって建立された。建立年は,1962年である。カスリーン台風は,1947年9月に発生し,1都5県(群馬県,埼玉県,栃木県,茨城県,千葉県,東京都)に跨る利根川流域において被害をもたらした。全体の被害としては,死者1,100人,家屋浸水303,160戸,家屋倒半壊31,381戸である。伝承内容は,1947年9月15日,カスリーン台風と活発化した前線の活動による影響で関東一帯は豪雨となり,桂川が大氾濫した。流域の耕地は泥と砂礫に埋まった。被害面積は,約19,3ヘクタールにも及び,伊勢崎市では家屋の流失が259戸,全半壊が290戸,床上浸水が5,230戸であり,死者が40名であったことを伝承している。(ももか) 地理院地図 内閣府防災情報報告書「カスリーン台風」 |
|
カスリーン台風は関東上陸はしなかったのだけど、赤城南麓ではかなりの大雨となり、前橋市を含めて多くの災害伝承碑があります。この場所からも赤城山がみえます。(ストリートビュー)神社の防風林が西側と北側にあるので、この場所の冬の空っ風の風向きは北西ではないかと推察されます。 |
寶積院墓地移転記念碑 (神奈川県平塚市) この写真は、神奈川県平塚市にある宝積院という寺の敷地内にある宝積院墓地移転記念碑というものである。この宝積院の付近を流れる金目川は流域の都市化が進み、農地や水田の減少などによって、保水機能が低下したことから大雨が降った際に洪水が発生するリスクが高くなったことから、神奈川県では昭和45年から河川の改修が始まった。 |
|
そして、宝積院でも河川幅を広げるために墓地がある場所に新たに堤防を建設することになったが、120基の基もの墓を移転させる必要があったため計画はなかなか進展しなかった。しかし、平成29年に寺と県との間で墓地移転契約が結ばれ、金目川に新たな堤防が作られることとなった。新たな堤防が完成して川幅が広げられてすぐに発生した令和元年東日本台風の際には堤防のギリギリまで河川が増水していたため、この墓地の移転がなく堤防や川幅がかつてのままだったら大きな被害が発生していたかもしれない。(ryo) | |
住宅地があったり、桜並木があったりすると、河川改修工事が遅れたりします。ここは支川が合流しているのに河川幅が狭くなっているのであふれやすかったところ。空中写真では改修工事の様子が確認できます。水害リスクを低減した方がご先祖さまも安心して休むことができそう。 |
岡本橋記念碑 (横浜市港南区) (周辺写真) 岡本橋記念碑は、横浜市港南区の岡本橋にある石碑で明治23年に建立された。この橋は鎌倉街道の一部だったが、曲がりくねっており、雨でぬかるむ悪路だったため、沿道の11ヶ村の人々の協力によって橋と道路の改修を行ったもので、石碑はこの功績を伝えている。 |
|
鎌倉街道の一部として多くの人が行き交っていたと考えられるが、ルートが変更され、今昔マップによると1944年以降の地図では鎌倉街道から外れている。橋がある大岡川は、昭和36年から43年の間に護岸工事がされており、ハザードマップでは川の合流部分と岡本橋の周辺のみ洪水の可能性があるが、被害が少ない予測である。また、護岸工事の際に岡本橋も明治時代の橋から架け替えられたと考えられる。(ちっひー) 【参考】 横浜市ホームページ 岡本橋ができたわけ 港南 今昔マップ 1944?1954年の地図と現在の比較 地理院地図 かつて石碑が置かれていた場所 |
|
説明版には、元々は港南中央通り13-24にあったものを移設したと書いてあります(現在の田辺薬局付近)。大岡川村の上大岡と日下村の松本を結ぶ道の橋だったので、「岡」と「本」を合成して橋の名前としたようです。(今昔マップ) |
大洪水紀念之碑 (青森県弘前市) 写真:大仏公園から白川 青森県弘前市石川にある、1935年(昭和10年)8月に発生した大洪水の石碑で、連日から降り注いだ豪雨により平川が氾濫し、最大4m浸水し7戸が家屋流出、145戸が床上浸水する被害が出た。石川に隣接している大鰐町大鰐にも同じ災害で同じ平川の氾濫による水害記念碑があり、平川流域で多くの被害をもたらしたことが分かる。 |
|
現在の平川上流にはダムや堤防の整備をしているが、2022年の8月にも氾濫危険水位に達し今でも危険な河川である。この2022年8月の大雨は平川の本流である岩木川が氾濫し、たくさんのりんごが被害を受けた災害である。津軽平野は昔から平川を含む岩木川水系の氾濫の被害を受けることが多いため、堤防の整備やダムの整備など、被害を最小限に抑えるための対策が必要である。(るとやん) 「津軽平野と岩木川のあゆみ」国交省東北地整 青森河川国道事務所 |
|
とても見晴らしの良い公園ですね。(地理院地図)やはり城跡でしたか。岩木山もみえるのかな?サクラの名所でもあるよう。伝承碑を川沿いに置くよりも大仏公園に置いた方が多くの人の目に触れるかもしれません。サクラの名所のようです。(ストリートビュー) |
陸軍架橋記念碑(神奈川県平塚市) これは、神奈川県平塚市馬入本町にある陸軍架橋記念碑である。関東大震災の際に倒壊した相模川にかかる馬入橋を陸軍が架橋したことを称えて建てられたものである。 大正 12 年(1923 年)9 月 1 日、関東大震災によって馬入橋が倒壊によって途絶えた交通を地元の消防組?在郷軍人会?青年団によって即日渡舟が運行していたところ数日後の豪雨で流失してしまった。そこに陸軍第十五師団(豊橋)所属工兵大隊と第十六師団(京都)所属工兵大隊が急きょ派遣され、架橋工事が行われた。橋の全長 450 メートルのうち、馬入側の 300 メートルを第十六師団、茅ヶ崎側を第十五師団が担当して同年 10 月 3 日に完成した。この碑は、そのうちの馬入側を担当した第十六大隊の事績を称えて建てられた。(くぼちゃん) |
|
撮影が夜になってしまいましたね。以前は草ぼうぼうだったようです(ストリートビュー)。2013年頃に侵入防止ポールが作られています。歩道を下ってくる自転車が危ないからでしょう。2020年には地面にマットが敷かれ雑草が生えないようにしました。2022年には標識のポールに「交差点注意」という看板がつきました。周囲の様子が少しずつ変わってきているのですね。 |
第3回発表会↓
八丁の水神社再建記念碑 (さいたま市緑区) (水神社写真) これら写真は埼玉県さいたま市にある「水神社」と「八丁の水神社再建記念碑」である。この石碑の近くには国指定史跡の見沼通船堀があり、1731年(享保16年)に完成した閘門式運河(こうもんしきうんが)だ。閘門式運河で代表的なのはパナマ運河だが、これが完成したのは見沼通船堀が完成してから183年も後のことなので当時木造で完成させた技術とアイデアが評価されてる。写真の石碑は見沼通船堀近くにある水神社の再建を記念して建てられたものであり、この神社は当時水運に利用されていた見沼通船堀に携わる人が水難に遭わないようにする為水の神を祀ったものである。しかしこの近辺は関東大震災の際に被害を受けた地域であり、水神社の本殿も全壊してしまい、この神社の周辺だけでも倒壊家屋は30戸にも及び大きな被害をもたらした。しかし本殿は震災の翌年である大正12年には本殿が復興されその記念として写真の石碑が作られた。 |
|
これほどの被害をもたらしたのはこの地域が見沼という名前からも分かる通り埋立地であったことが多くの被害をもたらした要因とも考えられる。見沼用水は江戸時代に幕府の役人である井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために埋め立てた農業用灌漑施設であり、その歴史的背景や技術から有形文化財とかんがい施設遺産に登録されている。(ひでき) |
|
周辺地域は本当に埋立地なんでしょうか?なお、運河の南側には、東西870mにわたって八丁堤が作られたよう。(地理院地図)。土が盛られて周囲より高くなっていることがわかります。 |
大島水場のヤツボ (神奈川県相模原市) ヤツボ周囲写真 神奈川県相模原市にある「大島水場のヤツボ」。湧水が見られる場所である。今回の課題の分類では、用水建設顕彰碑が最も近いものになると思う。 |
|
相模原市は西部が丹沢山地、東部が相模野台地であり、その境には相模川が流れる。東部の台地は相模川によって浸食され、2~3段の河岸段丘が形成されている。大島水場のヤツボは相模川と段丘の田名原面の間の段丘崖上にあり、透水層から湧き出る水を溜めた場所である。過去には、相模原の段丘崖にこのような湧水が見られる場所が多くあり、「ヤツボ」も10ヶ所以上確認されていた。現在では、その多くが枯渇し、数ヶ所を残すのみとなっている。写真からも分かる通り、現在の水量はそこまで多くない(参考:ここ1週間の相模原中央のアメダスでは積算7.5mmの降水量を観測)。また、ここから1kmほど離れたヤツボも視察したが、水量はさらに少なかった。どちらのヤツボも水を汲むのは難しい状況であった。(ゆうたん) 参考:相模原市 相模原市登録文化財 51.大島水場のヤツボ(おおしまみずばのやつぼ) |
|
相模原台地は5段に分けて考える人もいます。(地理院地図)(ストリートビュー)台地上が開発により人工地盤に覆われると、地下水への浸透が少なくなり、湧き水の水量が減ってしまう現象は各地で確認されています。、 |
水道碑記(東京都新宿区) 写真は、「水道碑記」である。場所は新宿通りの新宿区四谷区民センターの近くにある。高さ4.6mもあるのでかなり大きい。東京の指定文化財だ。かつてここは、江戸時代に玉川上水の水量や水質を管理した水番所のあったところで、玉川上水事業の功績を称えて、明治28年に石碑が建てられた。玉川上水建設の理由や、請け負った玉川兄弟の事績をたたえた内容が記されている。玉川上水はここで水量を調整され、地下へともぐり、石樋や木樋で城下へと配分された。東京都羽村の取水堰から標高差は約92.3メートルと緩勾配だが、全長は42.7キロメートルも離れたこんな場所にまで玉川上水がつながっていたかと思うと、中々感慨深い。(Toshi) 【参考】 新宿観光振興協会 新宿文化観光資源案内 |
|
古地図などを探って欲しかったね。江戸時代の地図を見ると(こちら)、図の下の方、内藤駿河守の近くに「水番」とか「玉川御上水改場」との表記がみられます。確かに、この場所から先は暗渠になっています。また、水量が多すぎた場合の排水路も古地図に描かれているようです。 |
水道碑記(東京都新宿区) 写真は「水道碑記(すいどうのいしぶみのき)」と呼ばれる石碑である。玉川上水開削の由来を記した碑で、現在は東京都の指定文化財となっている。 かつてこの場所は玉川上水の水量や水質を管理した水番所があった場所である。玉川上水は常に水番人がここ(四谷大木戸)で水門を調節して水量を調整したほか、ごみの除去を行うことによって水質を保つとともに地下へ流れ、石樋や木樋を用いて江戸城下へと配分されたという歴史がある。玉川上水は、古くから江戸の西南部の飲料水として重宝され、明治以降も設備の更新を行いながら使われていた。この石碑に書かれている文字は漢文で書かれており、さらに時間経過によって文字が削られているため、読みにくくなっている。しかし、新宿という世界的な大都市の中にこのような歴史を感じさせてくれるものはいつまでも残しておくべきものだと考えた。(らーく) |
|
玉川上水はここまでは開渠でした(明治初期の地図)。ここで「水番」によって水質が管理されていたというのであれば、江戸時代の浄水場的役割を果たしていたのでしょう。毒見などもしていたのかもしれませんね。 |
波除碑?津波警告の碑 (東京都江東区) 写真奥が波除碑(寛政三年建立)、手前が津波警告の碑(昭和三十三年建立) この波除碑の所在地は江東区深川牡丹三―三三平久橋西詰地に建立している。波除碑がある地点の標高は1.7mだが、周囲は0.6mと1mに満たないような場所の中にある。波除碑は洲崎神社碑と平久橋碑の二つの総称である。この石碑は寛政三年(1791年徳川家斉が将軍の時代)九月に、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋が悉く流され多数の死者、行方不明者が出た。この甚大な被害を幕府は重視し、洲崎弁天社から西のあたり18000㎡を買い上げ空き地にし、両端の北地点に二基の砂岩で出来た波除碑を建てた。しかし関東大震災や昭和20年の戦災により破損し、現在のように判読不能のような姿になった。平久橋碑の横には津波警告の碑が昭和33年に建てられ、誰もがここで起きた事がわかるようになっている。(土日祝ミッキー) 地理院地図 今昔マップ |
|
「津波」という言葉は、海底地震(や地殻変動?火山噴火)に起因するものに対して使われますが、かつては台風による「高潮」も津波と呼ばれていた時期がありました。江戸時代の地図(こちら)を見ると、伝承碑のあたりが下町の南縁で、ここより南が海だったことがわかります。弁天吉祥寺とあるのが現在の洲崎神社、松平越中守の屋敷のあたりが平久橋です。 |
波除碑(東京都江東区) 写真1は、江東区牡丹の平久橋にある水害伝承碑である。この伝承碑は「波除碑」と呼ばれており、寛政3年(1791年)に発生した高潮被害を伝承するために当時の幕府が建てたものである。これは原型をほとんど失っており、上部の三分の二が削られた。現在から三世紀もの前に建立されたものであるため、経年劣化であったり戦争に被害であったりするなど、時代の変化を物語っている。その証拠にこの伝承碑の横に、「戦災殉難者供養塔」が建てられているのだ。この伝承碑がある地域で高潮が発生した理由は、1600年代以降、現在の木場や越中島などが埋め立て地として開発されたからであると考える。つまり、埋め立て地であるが故、標高が低いのだ。それを示したのが写真2である。大規模な台風が発生すると高潮被害が出るのは当然であろう。(ロッチョン) 参考文献 関東地方整備局 港湾空港部 「東京港の変遷」 地理院地図 |
|
写真は平久橋の波除碑ですが、洲崎神社にも波除碑があって、二つセットでみていく必要があります。つまり、二つの波除碑を結ぶ線より海側には住んでいけないと警告しているのです。ちなみに、ここより南側の新しい埋立地である越中島、潮見、辰巳は写真の場所より標高は高いです。東京湾岸の標高について、今一度地理院地図で確認してみたら? |
陸軍架橋記念碑(神奈川県平塚市) この写真は「陸軍架橋記念碑」である。大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災に際して、この場所にかかる馬入橋が倒壊した。その後9月17日に派遣された陸軍第15師団所属(豊橋)の工兵大隊と第16師団所属工兵大隊(京都)によって架橋工事が開始され、同年10月3日に完成した。馬入側の300メートルを16師団が、茅ヶ崎側を16師団が担当し、記念碑は馬入側を担当した16師団の事情を称えたものである。江戸時代には東海道の主要河川であった相模川等には架橋が禁止されており、明治期になって木桁橋が架設され、関東大震災の前年からは架け替え工事が行われていた。その基礎工事の最中に関東大震災に遭遇してしまったということである。 (じん) |
|
相模川は河口付近を馬入川といいます。震災で馬入橋が倒壊したので、渡船で対応していたところ半月後に洪水で流されてしまって、陸軍によって架橋されたということですね。(今昔マップ) |
多摩川決壊の碑 (東京都狛江市) この写真は、東京都狛江市にある多摩川決壊の碑である。この碑は昭和49年9月の台風16号の影響により多摩川が氾濫し、狛江市の民家19棟が流れてしまうという災害が発生したため作られた。 |
|
原因は強い勢力を持った台風16号であり、多摩川上流の小河内ダムの貯水量が限界を迎え、通常の35倍の毎秒700tの放流を始め、本堤防か決壊してしまうという実に大きな災害である。堤防の決壊は、二ヶ領宿河原堰の左岸取付部から始まった。ここは小堤防であって厚さ15cmしかない小さな堤防であり、小堤防が決壊すると左岸側への迂回流が生じて堰の左岸取付部を洗掘しする。それによってさらに大きな流速の迂回流を誘発する結果となり河川敷が洗掘され、それが進んで本堤防までもが決壊してしまう結果となった。このようなことを二度と起こさないように建てられたのがこの多摩川決壊の碑である。(ゆうま) 参考サイト 多摩川散歩 ウェザーニューズSORA |
|
対岸には二ヶ領せせらぎ館があります。見に行くのならサクラの時期がいいです。用水路に取水するために堰が作られたのが江戸時代です。1949年にはコンクリート製の固定堰になりました。そして1974年に洪水が発生しました。現在の可動堰は1999年に完成したものです。 |
五十間鼻無縁仏堂 (東京都大田区) 今回僕は東京都大田区羽田6丁目にある五十間鼻無縁仏堂を訪れました。ここは多摩川の下流で羽田空港の前にあります。多摩川の河口には昔長さ50間(90m)にも及ぶ洪水の侵食から地域を守るための護岸として石積みの沈床がありこれが由来とされています。 |
|
もともと多摩川の河口は東京湾に近いことから潮流の影響を受け海からの漂着物が多い場所となっていた。この五十間鼻は建設年代は不明だが多摩川には関東大震災の時に多くの水難者が漂流したとされています。もとは多摩川の河口よりに角塔婆が一本立っていただけ立ったそうだが初代漁業組合長伊藤久義氏によって管理し毎年お盆に御霊供養をしていました。この記念碑は過去に起きた悲惨な状況を伝え続けるために今も大切に管理されていた。(なおみ) | |
ここの場所は知りませんでした(ストリートビュー)。石積みは干潮時には水面上に現れるようです。遠方の橋はできたばかりのスカイブリッジですね。(地理院地図) |
名取市 東日本大震災慰霊碑 (宮城県名取市) ここは名取市閖上にある東日本大震災の津波慰霊碑である。水害ということでここの近くを流れている名取川で震災時に起こった津波逆流による堤防決壊を取り上げたく実家に帰った際に立ち寄った。 |
|
しかし災害伝承碑が河川の方には存在しなかったため津波の慰霊碑の写真を取り上げる。この慰霊碑は2011年の3月11日に発生した東日本大震災の津波を伝える伝承碑である。真ん中に見えるモニュメントの高さは8.4mと当時閖上を襲った津波の高さを示している。また「種の慰霊碑」から発芽した芽のように上へ上へと伸びていく復興への思いを示した慰霊碑でもある。名取市民と市内で亡くなった人の計960人の名前が刻まれている。 東日本大震災の際、名取川の河口部の堤防が津波により破壊された。その後河川を逆流し内陸地にも大きな被害をもたらした。内陸では田畑への塩害の被害も当時問題になっていた。大雨による外水氾濫もあるが地震の津波の逆流による外水氾濫も実際に存在する。(ずんだ餅) |
|
2011年3月11日、ある大学のヨット部は閖上沖で練習中でした。陸から地震の連絡があって、すぐに港に戻り、車と原付バイクに分乗して高台に避難したようです。避難途中で瓦礫を片付けている住民を見かけたそう。津波防災を考える時、震災復興記念館も含め非常に重要な施設です。(地理院地図)、 |
↓採点対象外(質問は可)
目黒川改修埋立工事 竣工記念碑 (東京都品川区) 京急新馬場駅から徒歩3分程度のところ、鎮守橋および品川荏原神社のすぐ近くにある石碑である。石碑の背面の説明によると、昭和15年(1940年)4月に立てられたことがわかる。目黒川は古来より豪雨の度に氾濫して下流住民は悩まされていた。当時の東京府は、大正12年から昭和14年(1923~1939年)にかけて、1479万円(当時)の巨費を投じて、目黒川改修工事と河口付近の埋め立て工事を行った。 |
|
記念碑の350m下流にある水位観測所のデータ(東京都水防災情報システム)を確認すると、撮影日は晴天で雨が降っていないのにもかかわらず、約180cmの水位変化が確認できた(最低水位と最高水位の差)。東京湾に近く干満潮の影響を受けていると考えられる(感潮域)。つまり満潮時に大雨に見舞われた場合は、干潮時よりも水害リスクが高まることが想定される。明治初期の地図との比較(Q地図?関東地方迅速測図)から、記念碑の場所は目黒川の直線化工事が行われた場所であり、現在は左岸に位置する記念碑の場所は、改修前は右岸側であったことがわかる。かつての目黒川は、この場所の約150m下流で北流して、現在の北品川駅の東で東京湾に注いでいた。沿岸砂州上には「猟師町」があり、東京湾岸は干潟となっていたことから、目黒川河口付近のこの場所は砂泥が堆積しやすい場所でもある。撮影日には浚渫工事が行われていた。水害リスク低減のためには、河川改修後も定期的なメンテナンスが重要である。(じみい) | |
(おまけ?鉄道マニア向け) かつて京急には、目黒川をはさんで、「北馬場」と「南馬場」という二つの駅がありました。駅間が短く、ホーム端間の距離では250mほどでした(駒大正門と第一研究館の距離に相当)。南馬場駅のホームの端から北馬場駅をみると、ホームで電車を待つ人の姿が確認できるほどの近さでした(記憶による)。京急が高架となった際に2つの駅は「新馬場駅」として統合されました。現在の新馬場駅北口はかつての北馬場駅付近、新馬場駅南口はかつての南馬場駅付近にあります。各駅のみの停車駅で2つの改札がある背景には、駅の統合時に商店街の反対をかわす意図があったのかもしれません。 |
↓1月15日追加発表jump
横浜公園関東大震災 災害伝承碑(横浜市中区) 1923年に発生した関東大震災で、横浜市に多くの被害をもたらした。東京より震源に近く、中心部の多くが埋め立て地であったこともあり、壊滅的な被害を受けた。ほぼ全域で震度6強から震度7に相当する揺れに見舞われ、避難場所が市内に少なかったこともあり、死者は2万3千人にのぼった。人口に対する死者の比率は東京より高い。 |
|
横浜公園には約6万人もの避難者が集まった。この辺りには当時約13万人が住んでいたが、避難できる公園はここしかなかった。しかし、死者は50人にとどまった。横浜公園とほぼ同じ面積の東京の本所被覆廠跡地では大勢の避難者が集まり、3万8千人が焼死している。ここまで被害の差が生じたのには、いくつかの要因があると考えられている。樹木が多く、火災の火を防いだこと、水道管の破裂により、水たまりができ、熱や火を防いだこと、避難場所に家財が持ち込まれなかったこと、周囲の火災の火が時間差で燃えたことなどが挙げられる。当時の資料によると、水たまりは浅い箇所でも0.5mほどあり、身体を浸して熱気をしのぐことができた。加えて、大きな木の陰で火を避けることができた。9月1日の夜はグラウンドが市役所の対策本部の役割を果たした。 以上のように、公園は災害に効果があったことが証明されたために、震災後の復興計画では市内に公園を多く作る計画を立てる。横浜公園では復興にあたり、公園に避難した市民の方が木を植えた。その植樹のいわれを当時の横浜市長がこの記念碑に記した。その後は、もともとスポーツ向けのグラウンドがあったこともあり、「横浜公園球場」を復興事業の一環として建設した。この球場がのちの「横浜スタジアム」となる。(シャンパフ) |
|
今回の課題は水害や用水など「水」に関する伝承碑?記念碑を調べることだったのですがまあいいでしょう。その昔、神社やお寺は災害時の避難場所として機能しました(比較的災害に強い場所に立地します)。都市化するととても避難者を収容できないので、公園が重要視されたのでしょう。ちなみに、山下公園は関東大震災の瓦礫を埋立てて作られた公園です。(今昔マップ) |
昭和三十三年九月二十六日 台風第二十二号 災害慰霊之碑 (東京都北区) 左の写真は東京都北区赤羽西4-27に位置する赤羽三和児童公園内にある昭和三十三年九月二十六日台風二十二号災害慰霊之碑である。赤羽駅から徒歩10分くらいの距離にあるこの場所はどこにでもある住宅街の中の児童公園にこの慰霊碑はあった。この慰霊碑は名前の通り昭和33年の台風22号もたらした災害における被害者を弔うためにたてられた。 この台風、(以降狩野川台風と呼称する)は、静岡県伊豆地方及び関東地方を中心に甚大な被害をもたらし、死者行方不明者が1269人にも及ぶといった、台風被害最大級の災害となった。この慰霊碑がある地域でもこれまでにない雨量を観測した。 |
|
そのため旧被服廠跡(赤羽台)外の1カ所の崖地で不慮の大崩壊が生じ、一瞬にして10名の人命が奪われた。このほかにも北区内では、急斜面60数カ所の斜面で土砂崩れが発生し、合わせて13名がなくなった。この慰霊碑の近くには赤羽警察署があり、その中には土砂災害の救助中に殉職した、警官の慰霊碑(園部おまわりさんありがとうきねん碑)もある。(haru) 参考; 地理院地図 / GSI Maps|国土地理院 狩野川台風 - Wikipedia |
|
公園の角の薄暗いところにあるのですね。公園で遊ぶ子どもたちも石碑の存在に気がついていないのかも。平坦な赤羽台を刻んでいる谷が3本あり、いずれも河川長が短い割には深い谷(崖が急)になっています。9万年前から2万年前に古石神井川が谷を刻んでいたのかも?(地質の詳しい先生に聞いてください)。 |
早瀬の渡し水神宮碑 (東京都板橋区) 左の写真は東京都板橋区新河岸にある早瀬の渡し水神宮碑である。新河岸公園の敷地内に建立されている(ストリートビュー)。 この水神宮碑は1821年に再建されたもので、舟運で生活を営んでいた人々が建立したものと考えられている。 水神宮碑の隣にある説明看板にはこのように記されている。「荒川はその名の通り、しばしば洪水を繰り返していた。流域で生活する人々はそのような荒川を恐れ、神を祀って安寧を祈った。当碑は、そのような思いで祀られた水神宮碑の一つで、もともと鎌倉古道が荒川を渡る「早瀬の渡し」に立っていたものである。」 |
|
「早瀬の渡し」とは技術的、金銭的理由から荒川に橋をかけることができなかった時代に舟を使って川を渡っていた渡し場のこと。 1907年、1910年と相次ぐ大洪水により東京周辺で大きな被害が出たため、荒川放水路の開削工事が始まり、1930年に完成した。この水神宮碑は工事に伴い、現在の場所に移された。(みどり) 参考資料?サイト 早瀬の渡し(渡し碑コレクション) 現地説明看板 |
|
現在の荒川(放水路)は大正時代に作られたもの。元々の荒川は現在の新河岸川と隅田川に相当します(Q地図)。現在は流路が大きく変わっていますが、都県境にその名残があります。「早瀬の渡し」の上流に「芝宮の渡し」があったようです。荒川放水路完成後に新河岸川に橋ができて早瀬の渡しがなくなり、その後、笹目橋(旧)ができて芝宮の渡しも廃止されたよう。現在の笹目橋はさらに新しく架けられたものです。 |